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| <猿江神社由来記> 伝承として昔、康平年間(西暦一〇五八年-一〇六五)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入江に勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも其の屍より毎夜光明を発し村人この屍を丁重に葬る。 武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又懐中よりありがたき経文一巻がいでたり。よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊稱し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散、等のこの地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と稱えはじめ現在に至れり 正に猿江の地名これより発祥せり 尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は右末より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました。江戸時代は猿江稲荷神社と稱し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司っていたが明示以後、近年になり、神保宮司を祭官として招き、合せて村、町の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。 (案内板より)
<藤森稲荷神社縁起> 創立不詳ながら、江戸時代初期には本所横網町の江戸幕府御用材木蔵にすでに祀られていた。 享保十九年(一七三四)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。 亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭礼が行われていたことから、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。 昭和五十二年春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成十三年十二月崇敬なる旧東京官材共同組合長氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会会長長谷川建治氏、他関係諸氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮遷座される。 江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。 尚、石燈篭一対(弘化五年・一八五八)、石水盤(貞享三年)は区の有形文化財である。 (案内板より) |
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