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| <慈高山金剛院縁起>(掲示板) 慈高山金剛院は、お大師さま(弘法大師空海)の法灯を継ぐ古義真言宗の寺院です。 今からさかのぼること四百数十年前の天正四年(一五七六)三月、僧真清によって開かれ、当時は明王院と号しておりました。歴代住持言い伝えによりますと、現在地よりやや南方の丘陵に連なる土手下の地(元跡という当院所有地)に建てられ不動堂がその草創と考えられます。その前身を今に継承し、本尊として不動尊像を安置しております。 時に、天下においては戦国の世を経て織田信長が安土城に入城した年のこと、八王子においては小田原の北条氏照が八王子城を築いたとされる時期に相前後しております。 それから五十年余りを経た寛氷八年(一六三一)、第三世覚常の時代に、真清(慶長二年(一五九七)寂)を追崇して開山とし、あらためて現在地に伽藍を設けたことが寺伝に記されております。その当時この地は、八王子城落城後の旧城下町の移転に伴って開かれた、八日市・八幡の二宿の問を二町余り南に入る、旧甲州街道に面した要衝でありました。そうした現在の地への移転と伽藍の造営は、江戸幕府による八王子町建設の趨勢を汲んで、かつてその都市計画の発展の拠点となっていた地への進出であったと考えられます(『武蔵名勝図』、『新編武蔵風土記稿』、「八王子宿古絵図」など)。八王子総奉行大久保長安が地割を行った慶長三年(一五九八)当時のたたずまいを留める「寛永九年大久保長安地割図(写)」(当院が当地に移転した翌年の作成)の記載に照らしますと、長安の陣屋内の東南の一画にあった大師堂を含む地が、現在の当院の境内にあたっておりますことから、おそらくは同大師堂を受け継ぐかたちで明王院が移転、同院の不動尊像と大師堂の弘法大師像とを奉安し、金剛院として、新たなる伽藍の開設に至ったものと思われます。 後に、延宝八年(一六八〇)八月、第七世仙祐の時代に高野山内にあった慈眼院(現高崎観音慈眼院)の末寺となったことが、当院に伝わる「本寺末寺安堵状」に記されております。その後、明治二十四年(一八九一)四月に大本山金剛峯寺末となり、平成四年(一九九二)に別格本山の認可を賜って現在に至っております。 当院は、昭和二十年(一九四五)八月三日未期、戦火によって諸々の建造物が灰燈に帰しましたが、寛政二年(一七九〇)に寺社奉行所に差し出した『境内古絵図』(当院所蔵)に、本堂、観音堂、鐘楼堂、土蔵、鎮守稲荷社、庫裏、雪隠、馬屋、表門、長屋門、裏門などが、間数・坪数などともに描かれ、往時の伽藍配置が知られます。また、伽藍の東側には、天満宮(現天満神社、神仏分離以前は当院の鎮守社)が勧請されておりました。 当院の院史においては、萩藩松平(毛利)家江戸屋敷などへの寺僧の出入りが認められるほか、京都嵯峨御所(大覚寺)の塔中である華王院を兼帯していた時代もありました。 当院の所蔵に、新安流(江戸湯島霊雲寺、開祖浄厳)を中心に、安祥寺流(古安流)、中院流、御流(仁和寺)、三宝院流(醍醐寺)など、広く真言諸流にわたる聖教(仏薮典籍)が伝来しておりますのは、中興後ほどなく住持となった海印が、その多くを伝受・書写したことによるものです。 また、当院には、昭和三十七年に東京都の重要文化財に指定された「紙本著色高野山図絵」、「紙本著色西王母図」などのほか、「仏説阿弥陀経」(禁中下賜、伝菅原遺真筆)や「十六善神図」(鎌倉時代)、「不動尊木座像」(伝生駒宝山寺湛海作)、「不動尊画像」(伝智証大師作)ほかがあり、金剛院会館都文化財収蔵展示室に保存展示しております。 |
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| ★関東八十八ヵ所霊場(第六十三番) ★京王三十三観音(第三十番) ★多摩四国八十八ヶ所(第七十三番) ★八王子三十三観音(第三十一番) ★八王子七福神(福禄寿、寿老人) ★武相卯歳観音霊四十八箇所(第十六番)
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| 【都指定有形文化財】紙本着色西王母図・六曲屏風一双 【都指定有形文化財】絵本着色高野山絵図・六曲屏風一隻
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