| |
| |
| |
| |
| |
| |
| JR東日本「本八幡駅」→徒歩(5分) 京成電鉄「京成八幡」駅→徒歩(5分) 都営新宿線「本八幡」駅→徒歩(8分) |
|
| |
| |
| |
| 江戸時代に書かれた地書や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約十八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまな雑樹生じ…」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずには入ってはならない所、一度入ったら出てこれない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され「諸国に聞こえた名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。 入ってはいけない理由については、●最初に八幡宮を勧請した旧地である。●日本武尊が陣所とされた跡である。●責人の古墳の跡である。●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。●平将門の家臣六人がこの地で泥人形になった・・・ と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八~六一年)、水戸黄門(徳川光國)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、取り沙汰されてきたものではないでしょうか。 また理由のひとつとして「藪知らず」が「放生池」の跡地で あったからではないかとも考えられます。 古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。「不知八幡森」の碑は安政四年(一八五七年)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。(案内板より) |
|
| |
| |
| |