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| 半蔵門線「水天宮前」駅(5番)→徒歩(1分) 日比谷線「人形町」駅(A1)→徒歩(3分) |
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| <松島神社由緒>(パンフより) 江戸時代の国学者賀茂馬淵翁が元文二年(一七三七)十一月十四日より松島稲荷社に寄宿され、当社に於いて神の道を説かれたと「賀茂馬淵翁伝新資料九十一頁」に記されているが、社記類は大震災と戦災によってすべて灰塵に帰してしまっているので、創立年月日は詳らかでないが、口伝によると鎌倉時代の元享(一三二一)以前と推測される。 昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安産を得たと伝えられる。 正中元年(一三二四)三月二日夜刻三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、霊験自在円満の感応あり其の奇得を遠近の諸人が信仰し、これにより正一位稲荷大明神の位記を奉らる。 天正十三年(一五八五)二月十三日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。 (神社本庁「神社明細帳」) 正徳三年(一七一三)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時近辺を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められてそのまま住まいを構え、町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が十四柱と多い。 明治七年四月二日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。 大正五年六月十日松島神社と改称。 昭和八年二月一日都市計画法の実施に伴い蛎殻町四丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。 |
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