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| 京成電鉄「検見川」駅→徒歩(2分) JR「新検見川」駅→徒歩(10分) |
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| 八方除祭(1月1日) 節分祭(2月 節分の日) 例祭神幸祭(8月1日から3日間) 七五三祭(11月15日)
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| <由緒> 検見川神社周辺には「大賀蓮」で有名な検見川泥炭遺跡があり、三隻の丸木船が出土し、縄文時代すでに人々が住んでいた事がわかります。古くから住んでいた人々は自然の中に神々と共に生活していました。 検見川の地で祭祀が始まったのはいつ頃か定かではありませんが、人々が定住し始めた縄文時代には土俗的な祭祀が営まれていたと思われます。 当社の北隣の地は古くから「嵯峨」と称していて、嵯峨天皇ゆかりの地と伝えられ、朝廷との関係を物語っています。 検見川神社の御創祀は、平安時代清和天皇の御宇貞観十一年(八六九)全国に流行した疫病を鎮めるため、朝廷では京都の神泉苑に矛六十六本(全国の国の数)を建て、御霊会(今日の祇園祭)を斎行しました。此の時祇園社(現在の八坂神社)の御祭神素盞嗚尊の御分霊を矛に鎮めて国々に頒ち、疫病消除を祈りました。その時下総国で祀られた所が嵯峨の地でした。 その後、兵部少輔平春績が葛飾原に土着の際付近の開墾を始めたところ、災害が重なり疫病が流行しました。その時嵯峨の地から素盞嗚尊の御鏡が出土し、検見川大明神に無断で土地を犯したことから起きた災いであると知り、朱雀天皇の御宇承平四年(九三四)に嵯峨の地に社殿を建立して祭祀を営み謝罪したところ、無事開墾することができたと伝えられています。現在の花輪台の地に社殿が遷されたのは後陽成天皇の御宇文禄年間(一五九二~一五九六)のことです。 稲荷神社は、近衛天皇の御宇久寿二年(一一五五)勅命により下野国奈須野ヶ原の妖狐(九尾の狐)を退治した金田小太夫頼次の子孫金田周防守正明が、検見川の地を領した後水尾天皇の御宇元和二年(一六一六)検見川大明神の神域に祀られました。 熊野神社は、後小松天皇の御宇応永十六年(一四〇九)以来嵯峨の地に祀られていました。日頃崇敬していた正明は、寛永年間(一六二四~1644)に現在地に遷し、祭祀を営みました。 以後「神祇三社」と称され、今日に至っています。(案内板より)
<御神徳> 江戸湾(現在の東京湾)で漁をする大型帆船「打瀬船」の保有数一位を誇ったこの検見川の地に鎮まります当社は、湾内を往来する全国からの船の守護神として崇拝されてきました。海上での船を四方八方縦横に操る舟人にとって、検見川大明神はまさに生命を守護して下さる神様で、その信仰は篤く、今日に継承されています。 古来「八方除総鎮護」の古社として知られる当社は、安房を始め全国の人々から八方除・方災除・厄除の神として信仰されています。 八方除とは物事を起こす前に地相・家相・方位・日柄・歳まわりなどに基づく全ての災難を取り除くことです。 方災とは、土木工事・建築工事・移転・開店等の時、地相・家相・方位・日柄・歳まわりなどを知らずに犯した事が原因となり、苦労が増えたり病気がちになったりすることです。 方災除とは、この方災から起こる全ての災難を除き、元の清々しい気の流れの中に立還り、改めて検見川大明神に導いていただくことです。 御祈願の為、日々全国の方々が訪れ、広大無辺の御神徳をいただいています。(案内板より) |
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