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| 天日鷲命(あめのひわしのみこと) 栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)
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| 春季大祭(4月第1日曜日) 秋季大祭(10月26日)
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| 敷地神社(わら天神宮)の起源は、太古山背国葛野郡衣笠村に降臨された北山の神です。六国史を菅原道真が分類編纂した「類聚国史(るいじゅうこくし)」によれば、天長五(西暦八二八)年に都に大雨、地震があったおり、時の淳和(じゅんな)天皇が勅使を遣わして北山の神に幣(みてぐら)を奉ったとみられることから、その創建は平安建都以前と推測されます。天長八年(八三一年)この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀の国より移住してきました。彼らは菅生石部神社(現 石川県加賀市)崇敬者であり、移住にあたりその分霊を勧請し、御祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定め、北山の神の西隣に祀りました。応永四(一三九七)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便になったことから、両者を合祀して現在地に遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社とし、爾来六百年になります。現在地へ遷座後、当社は単に「天神宮」とも称していました。また、古来より稲わらで編んだ籠でもって神饌を捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という名称が広まり定着しました。 (案内板より) |
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