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| 拝殿(2013/01/17) |
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| <天久宮由緒>(案内板) お宮の創建は成化年間と伝へられる。(尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦一、四六五-一、四八七)往古、銘苅村に銘苅の翁子が閑居していた。 或るとき、夕陽の没する頃、天久野に威儀を正した法師を従へた気高い女人が山上より下って来るのに出会った。 中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出て流れている。
翁子が法師に女人が何人なるかを尋ねると、法師曰く、自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上の森に住む者で名前は分からないと答へた。翁子は不思議に思ひ気をつけていた。あるとき、女人が洞窟に入る時に、中途で消ゆるを見る。翁子は驚き、事の次第を王の臣下に伝へた。伝へ聞いた時の王は虚実を試さんと役人に命じて、洞窟に向って香を供へたところ、それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祭った。時に神託あり我は熊野権現なり、衆生の利益の為に現はれたり。 かの女人は國家の守護神なり、弁財天であるとの神託があった。又かの翁子も唯人ならず。
衆生は神変の加護によりて妄念を解くことができようと、神徳を重んじ國家安全、萬民豊楽の基のため、社殿を建立して祭ったといふ。 昭和十九年の十、十空襲の折に社殿を消失、戦後は御嶽形式により奉祀。昭和四十七年旧二月二十二日本殿を建立、 奉鎮祭斎行。本土復帰の昭和四十七年五月十五日宗教法人となる。同日神社本庁に包括され、 現在に至り昔の素晴らしい社殿の復興と向後の発展を期せむとす。 |
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