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| ゆいレール「県庁前」駅→徒歩(18分) ゆいレール「旭橋」駅→徒歩(19分)
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| 拝殿(2012/11/21) |
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| 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)<浮嶋神社> 豊受神(とようけのかみ)<浮嶋神社> 具志頭文若(ぐしちゃんぶんじゃく)<世持神社> 野国総管(のぐにそうかん)<世持神社> 儀間真常(ぎましんじょう)<世持神社>
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| <沖縄総鎮守 波上宮> 当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。 その後この聖地に神のお告げにより王府が熊野三神を祀り以来朝野の尊崇極めて篤く「端城[はなぐすく]」または「なんみんさん」などと称され親しまれてきた。 社殿の創建は不詳ながら史記『琉球国由来記』に薩摩の頼重上人が波上宮の別当寺として波上山護国寺を開山(一三六八)しここ宮寺を王の祈願所としたとみえ創建時が伺われる。 また大永二年(一五二二)寛永十年(一六三三)享和三年(一八〇三)などには天災・火災などによる造営や再建の様子が史籍に散見される。 明治二三年(一八九〇)官幣小社に列格し豪壮な社殿を誇ったが先の大戦の戦火で灰燼に帰した 昭和二八年(一九五三)ハワイの人々の赤誠により本殿再建がなされた 昭和三六年(一九六一)には拝殿が県内外の奉賛により再興され平成五年(一九九三)に戦後五十年にして全社殿の本格的御復興がなされた。
<波上(ナンミン)> 波上は、人々から信仰の場として崇められ、景勝地としても親しまれて来ました。 海に突き出した琉球石灰岩の崖には、沖縄貝塚後期から歴史時代初期の墓所である「波上洞穴遺跡」が存在し、波上宮社殿造営工事の際には、沖縄貝塚時代後期並びに14~16世紀の遺跡が確認されています。 『おもろさうし』(1531~1623)にも謡われ、波上宮が立地する以前から信仰の場であったことをうかがわせる陽石や石垣の存在が認められています。 『琉球神道記』(17世紀)、『琉球国由来記』(1713年)などに波上宮(祭神は、伊弉冊尊・・速玉男尊・事解男尊)の縁起が記載されており、護国寺(本尊は、阿弥陀如来・薬師如来・千手観世音菩薩)とともに人々の崇拝を集め、王府の行事にも位置づけられるほどに重要な場所でした。 また、景勝地としての波上は、1663(崇禎6)年に尚清王の冊封正使として来琉した杜三策[とさんさく]の従客だった胡靖(こせい)が著した『杜天使冊封琉球真奇観(とてんしさっぽうりゅうきゅうしんきかん)』をはじめ、たびたび冊封使録に登場しています。 18世紀の中葉、当地を訪れた冊封正使周敦煌[しゅうこう]が著した『琉球国志略』(1757年)に掲載されている「琉陽八景」に一つとして、「筍崖夕照[じゅんがいせきしょう]」と題して描かれ、名高い景勝地であったことがわかります。 また、琉歌には、 「でかよう思童波之上にのぼて 月見し遊ば十五夜だいもの」 「昔波之上に無蔵とながめたる 面影や今も月に見ゆさ」 などと詠われ、そこが月見の景勝地であるとともに、逢瀬の場所であったこともわかります。 第2次世界大戦により、波上は戦災を受け、わずかに鳥居を残すのみになってしまいました。戦後、波上宮、護国寺は再建されましたが、周囲の海岸線の埋め立てが急速に進められる中、往時の姿が偲ばれます。 |
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| [2014年] 15万人 [2013年] 15万人 [2012年] 15万人 [2011年] 15万人
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