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| 音羽山清水寺は坂東三十二番の霊場で熊野権現が不可思議の力をしめしあらはされた地、観世音霊像出現の山であり伝教大師により草分され、慈覚大師により新に起され、坂上田村麻呂が建立したものであります。 今を隔たる一千百有余年の昔、桓武天皇の延暦の末頃、伝教大師が東方のえびすの教化を志しました時、夢に老翁が現れ告げて云いますのに『我かつて宝亀年間、沙弥延鎮に山背音羽清水をひらかしめ、観音霊応の地を上総にもとめ苦行すること三十八年今だに得る所なし。師、幸に彼の地に到るならば救世の浄刹をえらび、仏の道によつて一切衆生をすくふ為のわたしばを開くべし。我が名は行叡と云う』と云い終るや忽然として雲に乗つて東方に去つてしまひました。 やがて夢も覚め、既に夜も白んで居りましたのであたりを探しましたけれど何の影も姿も見えませんでした。そこで歩を東方に進め諸国を巡歴し、上総の国に入りますと、途に迷つて広い原に出てしまいました。やがて日も暮れて出会う人もなく、あたりは暗くなつてしまいましたが泊る家もありません。困り果てゝいると、一人の樵夫が薪を背負い灯を持つて来ましたので、道を尋ねますと『此のあたりは何時も狐狸の類が横行し、人を悩ましております。然し御心配することはありません。今夜は私の家にお泊り下さい』と道を案内しつゝ一里ばかり行きますと、草ぶきのいほりにつきました。樵夫は大師を招じ入れ丁寧になぐさめ、御馳走をしてくれました。夜もおそくなりましたので座つたまゝまどろみますと、やがて夜が明けて見れば樵夫は居りません。しかもいほりは神社であり、その鳥居に「熊野権現」と書いてありました。大師は大変驚きまして山の中を尋ねれば、古木鬱蒼と茂り、谷はおくぶかく、到つて閑散、東の方を眺めれば青い海原がびょうびょうとしてひろがり、北を望めば社前に泉が湧き流れて滝となつていました。丁度山背音羽の風景に似ています。大師は、先の行叡と云い、 この度の樵夫と云い皆熊野大権現の化身であつて、大悲霊場を示すものであると思い、すぐさま神社の傍に庵を造り、十一面観世音の立像の彫刻を始めました。すると当山の金沢谷より毎夜光を放ちますので、怪しみ掘つて見ますと、金銅御丈一尺七寸の正観世音の御像が出て来ました。之は当山の御家宝物として現在もなほ秘像しているものであります。其処に現在井戸があります。これは尊像を洗つた井戸と云い又衣洗いの井戸とも云い伝えられています。 然るに大師は急に勅命をうけましたので、いまだ堂閣建立の念願がかなわぬことを残念に思い乍らも京都に帰りました。 後に、慈覚大師が師の志をつぎまして、此の地に来られ当山の楠木を伐り、菩薩谷において千手観音二体を刻み、本木の方を刻んだ一体五尺三寸二分は高野山善応寺に納め、末木の一体五尺二寸はこれを当山に納め、堂閣が出来ませんので二尊を先師の庵に安置して京都に帰りました。 後年、坂上田村麻呂が願うところがあり、大同二年(西紀八〇七年)両堂を建立し十一面観世音を奥院へ、千手観世音を本堂に納め、山背音羽伽藍の制にならつて、音羽山清水寺と名付けました。(HPより) |
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