| |
| |
| |
| |
| |
| |
| 京成電鉄「薬円台」駅→徒歩(25分) 京成電鉄「形成大久保」駅→徒歩(25分) |
|
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| 一、由緒 1.当社の儀は弘仁年間嵯峨天皇の勅創に係り、古来寒川神社二宮大明神と聯称す。往昔より近郷二十三ケ村の総鎮守にして、丑未七年目毎に二宮神社外八神社の神輿を会し大祭を執行す。 2.治承四年、藤原師経当国へ左遷の際、同人及神官倶々協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す。 3.慶長年中、東照宮上総国東金へ御成りの砌り、御参詣の際御墨印寄せられ、二代将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総国千葉郡三山村に於て御神領拾石御奉献。其の後貞享元年三月十一日、東照宮より四代将軍家綱公まで神官宅火災の砌り御朱印焼失に付其の砌り寺社奉行へ御訴へ申上げ御吟味相済、翌二年六月十四日、五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領御寄附あり。(現在の御社殿は安永年間再造営せるものなり) 4.明治四十三年十二月十六日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道一九九番、無格社若宮八幡神社(大雀命)、同所字西ノ庭四四、二宮神社摂社阿波八幡神社(誉田別尊)御本社へ合祀す。
一、大祭起源及沿革 当社は今を去る五百有余年前、馬加村(千葉市馬加町)の城主陸奥守康胤奥方懐妊、十一ケ月到るも何等出産の模様なきをいたく憂い、三山村二宮神社、畑村子安神社、馬加村子守神社、武石村三代王神社の各神主に命じて馬加村の磯部に地を相会し安産御祈祷の祭禮たる産屋の古式を執行せしむ。(磯出祭は是なり)さる程に奥方安産あり然も男子御出生の事とて康胤初め家臣領民等殊の外喜び此神徳に報いんと総社二宮神社二宮安産御禮の大祭を執行する様領内村々に告げ知らせ、康胤は此度出生せる若殿を伴ひ家臣一同を引連れいとも麗やかなる大祭を挙げたり。(是れを安産御禮大祭と云ふ)是ぞ三山大祭の濫觴にして後年此二つの祭を一つに合せて同時に式事を執行する様になりたり。此処に「三山の祭後が先」と云ふ伝説生じたり。是より庶人亦其霊徳に浴せんと安産の祈願をなす者多きを加へ今や関東一の御産の神として有名となり、この先例を丑年未年の七ケ年毎に踏襲し本社の外八神社、三山・二宮神社、畑・子安神社、馬加・子守神社、武石・三代王神社、久々田・菊田神社、高津・高津比咩神社、実籾・大原神社、大和田・時平神社、古和釜・八王子神社の神輿三山神揃場に集ひ其れより行列を以て御本社に参進し大祭を執行す。当夜は馬加村磯部に四基の神輿相会し安産御祈祷の式事を行ふ。この夜畑村に必ず男女の出産ありて後七年目の大祭には稚児となり参列する。 (二宮神社御由緒書より)
|
|
| |
| |
| 【市指定有形文化財】斎藤園女等奉納句額 【市指定有形文化財】二宮神社神楽 【市指定有形文化財】二宮神社社殿 【県指定有形文化財】下総三山の七年祭り (丑年と未年にあたる年に開催される大祭である。)
|
|
| |
| |