美作総社宮

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タイプ
神社
名前
美作総社宮(みまさかそうしゃぐう)
正式名
総社(そうじゃ)
漢字パターン
美作總社宮、美作惣社社
所在地(住所)
岡山県津山市総社427
アクセス
JR姫新線「津山駅」→徒歩(38分)
中国自動車道「津山IC」→車(13分)
中国自動車道「院庄IC」→車(13分)
鎮守
美作国総社
標高
131.4m
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主祭神
大巳貴命(おほむなむみのみこと)
配祀
鏡造命(かがみつくりのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
様式
中山造
旧社格
県社
創建
563年〔皇紀1224年〕
御由緒
御縁起
御神徳
歴史等
<美作総社宮の由緒>(由緒板)
美作総社宮は社記に欽明天皇の二十五年(およそ一四〇〇年前) 大己貴命(大国主命)を字本舘に(西方およそ一キロ)にお祀りしたのがはじまりと伝えられた。
和銅六年(西暦七一三年) 備前国から六郡を割いてはじめて美作国が置かれ、その翌年国府がこの里に開府されました。
その後美作の国司が社殿をいまの社地亀甲山に移して大巳貴命を主祭神として一宮(中山神社) 二宮 (高野神社)の両大社をはじめ美作国六十五郷の総べての社祇を合祀して総社宮となづけてそのみちおよそ五百年間歴代の国司はみなこのご神意を奉じて国内の政治を執り行いました。
その後鎌倉時代になって国府がすたれたあともこの社は美作三大社の一つとして広く土民より崇祈され近世のはじめ美作国主森氏は多くの神領を寄進しのちの松平氏もまた祭祈料を奉納し明治維新後は県社に列せられました。
現在の本殿は永禄十二年(西暦一、五六九年)に毛利元就が造営したものでのち明暦三年(西暦一、六五七年)に国主森長継が大修理を加え近くは昭和七年に国と氏子の崇敬者一同の協力によって解体修理が行われました
この社殿の造りは入母屋妻入の独特な様式をもち規模、豪壮で華麗な彫刻を総社宮に配置した桃山時代の代表的なすぐれた建造物で全国の総社宮のうちで当社のみが大正三年国宝に、現在は国の重要文化財に指定されています。

<由緒>(平成祭)
祭神 大巳貴命。配祀 一宮中山神社、鏡造命。二宮高野神社、鵜茅葺不合命、美作国内、910座の神祇。美作總社宮は、社記に欽明天皇25年(およそ1400年前)大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約一キロ)にお祀りしたのがはじまりと伝えられ、和銅6年(西暦713)備前国から六郡を割いてはじめて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁されました。その後、美作国司が今の社地、亀甲山に社殿を移して大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作65郷のすべての神祇を合祀して總社宮となづけ、そののちおよそ五百年間歴代の国司はみなこの御神意を奉じ国内の政治を執り行いました。その後、鎌倉時代になって国府がすたれたあとも、この社は美作三大社の一つとして広く士民より崇祀され、近世はじめ、美作国主、森氏は多くの神領を寄進し、のちの松平氏も祭祀料を奉納し、明治維新後は県社に列せられました。現在の本殿は、永禄5年(西暦1562)に毛利元就が造営したもので、明暦3年(西暦1657)に国主森長継が大修理を加え、昭和7年、国と氏子崇敬者の協力により解体修理が行われました。この社殿の造りは、入母屋妻入で向拝に千鳥破風を配した独特な様式をもち、規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代のすぐれた建造物で、全国の總社のうちで当社のみが大正3年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。
霊場・札所
美作三大社
文化財
【重要文化財】本殿
拝殿方向

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