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| <由緒>(平成祭) 麻賀多神社は、今より約1854余年前、人皇第十二代景行天皇42年6月晦日に、皇子日本建尊が、国内鎮撫、国土開発、五穀豊穣、の御指導の為、水路利根川、印旛沼を経て当地に御上陸なされ、近くの住民を集めて大きな杉の幹に御鏡を懸け「インバノクニタマオキツカガミと崇め祀れば五穀自ら豊穣する」とのたまわれ、この鏡を祭祀することを教えられた尊はこのとき、はるかに伊勢の大神を遥拝せられ前記の緒願を祈念遊ばされ、当地方開発の基礎を築かれこの偉大な御功績を残されたのが当社の創始である。その後約300年、人皇第十五代応神天皇20年現在の成田市船形手黒の地に印旛国造伊都許利命(神武天皇の皇子神八井耳命八世の孫)によって初めて社殿が創立せられ、その御鏡を御霊代としてワカヒルメノミコトを鎮祭されて以来、霊光が四方に輝き益々五穀豊穣し、住民の暮らしが更に豊かになり、泰平の世が続いた。又伊都許利命は、ワカヒルメノミコトの御神命によっておお杉の下より七つの玉を掘出しそれらを御霊代として、オキツミヤにワカムスビノミコトを併祀せられてより、一層当地方の五穀は豊かに稔り、永く明るい楽土が築かれ、子々孫々その思恵に浴し今日に至った。ワカヒルメノミコト、稚産霊命をマガタマの大神と崇められ、七つの玉(勾玉)から麻賀多と幾度か改称せられたるも、御神威は古くより輝き渡っている。なお応神天皇27年に至って伊都許利命の御子浦長多津命が病で臥せられた際、父命は、真賀多真大神の御神命によって、マガタマの二柱の大神と共に病気平癒の祈祷をなされた結果御子の病は奇跡的に神癒される等、古くより家内安全、病気平癒の守護神としての御神徳も顕彰され伝承されている。更に人皇第二十三代推古天皇16年に、伊都許利命第八世の孫広鋤手黒彦命に再び御神命があり、現在の成田市台方に「真賀多真の大神」としてオキツミヤよりワカヒルメノミコトを遷宮され、この御社を大宮殿と尊称する。その後、人皇第六十代醍醐天皇延喜十八年、延喜式神名帳に登載の際、御社名が三種の神器と同称なるを「真賀多大神」と改称され、更に麻の名産地に因み真を麻に替え現在の麻賀多神社と改称された。一方オキツミヤは、天水の神とし、大宮殿は五穀の神として、両社産業発展への御神威を発揚され、五穀の豊穣に関係が深いので、この地方住民の崇敬が特に篤く、千葉家を始め佐倉藩主等によって数回にわたって御社殿が造営せられ、一千数百年の永きにわたって社名が輝きわたっている。現在当印旛沼の当方台地に当社を祖社とする麻賀多神社が18社祀られて居ることからも当社に対する崇敬が如何に篤かったかが推察される。現在台方大宮殿には、筒粥祭、御田植祭、豊年神楽祭の特殊神事を始め、麻賀多神社にまつわる古事が継承されるほか、御縁起中の緒地名等(七台、七坂、七井戸、七干場、七兎田、七人百姓)が当社近くに残っている又当社の御本殿は特別建造物とし、御神木の大杉(周囲八米樹齢約一千)は、千葉県指定自然記念樹として住古を物語っている。尚オキツミヤは1800余年の創祀時より、天然水を恵む御神徳を顕現せられたが、現在当社近く千葉県水道局成田給水場が建造されて、成田空港、成田ニュータウン等に給水して、我が国を訪れる全世界の人々にまで使用される事はまことに奇しき縁である。かくて当麻賀多神社の御神威は創祀以来数々の由緒と御縁起が輝きわたるとともに、新時代に添うてあまねく光被される。 |
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