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| 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線「大洗」駅→徒歩(40分) 東水戸道路「水戸大洗」IC→車(15分) |
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| <由緒>(平成祭) 文徳実録の記録によれば齊衡三年常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居りました大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨されたのです。即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元年八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました当時國司の上奏から八か月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事とが出来ます。延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廢を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。明治新政府が、神社制度を定めらるるや、明治七年九月県社に指定せられ、明治十八年四月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國家と共に栄えて行く事でしょう。 |
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| [2014年] 10万人 [2013年] 10万人 [2012年] 10万人 [2011年] 10万人
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