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| JR東日本「亀戸」駅(北口)→徒歩(15分) JR東日本「錦糸町」駅(北口)→徒歩(15分) 地下鉄半蔵門線「錦糸町」駅(北口)→徒歩(15分)
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| 天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅家の祖神)を奉祀する亀戸天神社は一般には広く「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」と呼ばれ、親しまれております。 古くは東宰府天満宮、本所宰府天満宮、あるいは亀戸天満宮と称されておりましたが、明治六年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和十一年亀戸天神社と正称いたしました。 御祭神・菅原道眞公は、承和十二年(八四五)六月二十五日、京都菅原院(鳥丸通り)に誕生され、幼少のころから学才にすぐれていたことは並々ならぬものがありました。 御年五歳にして
美しや 紅の色なる梅の花 あごが顔にも つけたくそある
と詠ぜられるほどの卓抜な才能を発揮したと伝えられ、やがて帝の御覚えもめでたく、次第に重用され、重要な政務を任命され、のち正三位右大臣兼近衛大将に進み、さらに御年五十七歳で従二位に昇叙せられました。 政見に対するすぐれた才能と相まって、菅公は多くの漢詩や和歌を作られ『類聚国史』や「三代實録』の撰修をはじめとする学問上の功績は、わが国の歴史・文学の上にさん然と輝いております。 しかし当時権勢を誇った藤原氏の議言にあって延喜元年(九〇こに大宰権師として九州大宰府に遷せられました。 その時、住みなれ給いし紅梅殿の庭前の梅を見て
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
と詠ぜられたことはあまりにも良く知られております。 大宰府にあっては天を恨まず人を怨まず、ひたすら清節のやがて現われることを期しましたが、そのかいもなく延喜三年(九〇三)二月二十五日梅香る大宰府に誠心の一生を閉じられました。御年五十九歳のことでした。麗去後、人々は菅公を神として讃仰し、 近世に至ってはことに学問の神として信仰を集めております。 正保年間、九州太宰府天満宮の神人菅原信祐(道眞公の喬孫)は霊夢に感じ、菅公ゆかりの飛梅で神像を刻み、社殿建立の志願をもって諸国を廻り、寛文元年2六六こ江戸に達し本所亀戸村にあった天神の小祠に奉祀いたしました。 時あたかも徳川幕府の大事業である本所開発にあたり、天神様を崇敬すること篤かった将軍家綱は現在の地に社地を寄進しました。そして、寛文二年十月二十五日、太宰府の社にならい、社殿、楼門、廻廊、心字池、太鼓橋等を営み、以来三〇〇年余後の今日まで、 数ある東国天満宮の宗社として尊崇されてまいりました。 (パンフより) |
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