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| JR「津田沼」駅→徒歩(15分) 京成電鉄「京成線京成津田沼」駅→徒歩(6分)
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| 大己貴大神(おおなむちのおおかみ) 藤原時平命(ふじわら のときひらのみこと)
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| 古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(西暦八一〇年代)今より約一、二〇〇有余年前より御社として祭祀されてありました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土推積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活をして居りました。住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を生土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭時を執行していました。また、住民は地内並びに周辺(近隣)の人と縁結びしますと、これがまことに夫婦円満の家が多く出生児達もみんな丈夫に成長し、長寿の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁昌の神(後年この地に商人が出来て、このお宮に祈願したところ何れも商売が繁昌した)として崇敬しました。 治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで案着の出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この神社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御字延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉齋崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。 その後星移り年変わりて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。(案内板より) |
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