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| 豊受大神(とようけのおおかみ) 八大龍王(はちだいりゅうおう) 大川大明神(おおかわだいみょうじん)
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| <天橋立神社(天橋立大明神)>(由緒板) 天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。近くに真水がわくことからも磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社とも言われて来た。 当社の祭神は、明治時代の地誌類では、かつて本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向って左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。 当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。 一方、南北朝期の「慕帰絵詞(ぼさえことば)」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」〔享保九年(一七二四)〕や「丹後国天橋立之図」〔享保十一年(一七二六)〕には当地に「橋立明神」の文字も記されているため、中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられている。 いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。現在の社殿は明治四十五年(一九〇七)の再建になる。 当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。鳥居の石材は花崗岩(かこうがん)で形態は明神型、『吉津村誌』によると慶安四年(一六五一)の造立、願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読む事はできない。 〔宮津市教育委員会〕 |
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