| |
| |
| |
| |
| |
| 都営地下鉄「大手町」駅(C5)→徒歩(2分) JR東日本「東京」駅→徒歩(6分) |
|
| |
| |
| |
| 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子、将門は、下総国に兵を起し、忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。 享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。 将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ち、この場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。 その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てゝ日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神に、その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいまゝにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。 その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって、関東地方には数多くの伝説と、将門を祀る神社がある。 このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け、悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。 〔史蹟 将門塚保存会〕 |
|
| |
| |
| |
| |