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| 紅石稲荷神社 / 大連神社 / 日本西門鎮守八幡宮 |
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| JR「下関」駅→徒歩(44分) 中国自動車道「下関」IC→車(7分) |
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| 舞楽始め祭(1月2日) 歳旦祭(1月1日) 節分祭(2月3日) 先帝祭本殿祭(5月3日) 耳なし芳一祭(7月15日) 秋季例大祭(10月7日) 七五三詣(11月15日) 除夜祭(12月31日) しめなわ祭(12月10日)
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| <由緒>(平成祭) 今を去る800年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か8才をもって平家一門と共に壇之浦に崩じ給うや 赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し 建久2年 朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い 建礼門院御乳母の女 少将の局命阿尼をして奉侍の上、勅願寺として永く天皇の御冥福を祈らしめ給う、朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝亦枚挙にいとまなし 明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し 御影堂を改めて天皇社と称せられ 明治8年10月7日勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い、社殿を造営せしめらる。昭和15年8月1日天皇陛下には勅使を差し遣わされ官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、社殿又改造し輪奐の美整いしが 惜しむべし大東亜大戦の空襲を蒙り 神殿以下悉く焼失加ふるに未曾有の敗戦に依り 復興造営は至難を極めしも本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦闘20年にして完工、昭和40年4月御祭神780年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は昔日に倍し陸の龍宮と称えらるるに至れり
<赤間神宮>(案内板) 寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる。昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し、同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行。同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を巌修せり。
<水天門記> 惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先多額の御寄進に加へて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋吾国未曾有の御由緒と関門の此の風光明媚とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと此処に昭憲皇太后より賜りし御歌の 「今も猶 袖こそぬるれ わたつ海の 龍のみやこの みゆきおもへは」 に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日 畏くも昭和天皇 香淳皇后両陛下 此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮 並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて 「みなそこに しつみたまひし 遠つ祖を かなしとそ思ふ 書みるたひに」 の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり」
<太鼓楼記> 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長靖原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日元旦を期し見事に竣成す蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡にわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈を光被せむ
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| [2014年] 18万人 [2013年] 18万人 [2012年] 18万人 [2011年] 18万人
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| 紅石稲荷神社 / 大連神社 / 日本西門鎮守八幡宮 |
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