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| 大己貴命(おおなむちのみこと) 須勢理姫命(すせりひめみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと)
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| 後冷泉天皇の永承3年、八斗村太夫野に大己貴神を勧請し奉祭。大治元年8月13日、南方沖より吉端を顕し、白蛇が白亀の甲にわだかまり、海岸によって来た。塩汲みの人達が協議し、「御神霊なればこの柄にお登り下され」と塩汲みの柄杓を差し出すと登り始めたので、一同大いに驚き、神と崇め、太夫野の社へ合祀した。久安3年5月現鎮座地へ遷祀する。東山天皇の宝永5年、正一位白子大明神の称号を賜る。現白子町名の起こり。宝暦12年6月再建。 <伝説> 大治元年(1126)、村人が海岸かへ潮くみに行くと、沖から白いカメに乗った白いヘビがやってきた。村人が潮くみのヒシャクを差し出して「神様ならこのヒシャクを渡れ」と言うと、本当にヘビは登ってきた。」これを神の化身として祭ったのが白子神社です。
<由緒>(平成祭) 謹んで社殿を繙くに、平安の昔、後冷泉天皇の永承3年(西暦1048)、八斗村の太夫野に大国主命を祀るとある。降って崇徳天皇の大治元年8月13日(仝1126)、里人が潮汲み中、南方沖から白蛇が白亀にわだかまって渚に来た折り、森川吉左衛門なる者、若し神ならばこの杓にお登りあれと杓を差し出すと自若として登り始めたので、霊感によってこれを太夫野に奉祀した。然るに当時、悪疫流行し荒災相次いだので、近衛天皇の久安3年(仝1147)、関村の南白亀台に遷座したと伝える。けだし南白亀台は前に南白亀川の清流を巡らし、後に老杉古松の森立する山河襟帯の地なるが故に、神域に相応したからである。爾来、歳移り星流れて凡そ900年余、宮柱太しき建てて、南白亀郷十二ヶ村の鎮守と仰ぎ、今日を迎えるに至った。江戸時代に入るや、白鳳山本法寺の別当の許に、領主や地頭の篤い崇敬と推進により、社領除地1町7反2畝、境内地1町6反余を有した。更に東山天皇の宝永5年(仝1708)には、正一位白子大明神の神号を賜り、南白亀神社と称した。現社殿は寳暦8年から再興にかかり、仝11年6月、落慶した。流れ作り銅板葺きの千木の大棟高く華麗な彫刻美は、江戸時代後期の神社建築の白眉と称され、町の重要文化財に指定されている。南白亀の祭礼は養和元年(仝1181)に創まると伝えられ、江戸後期には万余の善男善女が遠近から蝟集して頗る殷賑を極め、その農具市は下総八幡宮の祭典と並び称された。明治維新に当たり神佛分離の末、別当は廃され白子神社と専称した。明治30年7月、本殿囲み続きの瑞垣が完成して、神苑の神々しさ一入である。昭和3年(仝1928)、昭和天皇陛下御即位式の年、郷社に昇格し、次いで昭和31年、61年ごとの御厨子の御開帳を催した。これより先、大戦後の昭和21年(仝1946)、神道指令の公布によって白子神社は宗教法人となったが、神威の趨勢は聊かも動かず、昭和53年6月、神社庁から規範神社の称号を與えられ、例祭には献幣使の参賀を添なうしている。現在末社数44社、氏子数1375戸は累代祖孫、相承けて敬神の誠を捧ぐ、願わくば神徳普く白子の郷を照らし、永く蒼生の弥栄に加護を垂れ給わんことを祈る。宗教法人 白子神社宮司 勲六等 加田稲夫 謹撰者 白子文化財審議会長 牧野誠一
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